AC、共依存
前にACや境界例に触れたところ、そのページのアクセスが多かったので、このテーマでしばらく行ってみたいと思う。
まず、AC=境界例ではない。境界例は心的な水準を分けた場合の一つであり、そこにACで含まれる人が多いのだが、必ずしもそうとも言えず、健康な心を持っている人もいるいし、神経症水準の人もいるし、病的な人もいる。
ACはそもそも、アルコール依存症の親を持つ子どものことだったが、拡大解釈が進んで、今は子どもでありながら大人的役割を強いられたり、被虐待児として成人した人のことだと考えていることが多い。成長過程において養育環境でトラウマを背負った人と思ってもいいだろう。トラウマの解釈も、このコトバが安易に使用されていることもあり、何とも言えないのだが。。。運動会でベベになってもトラウマとは言えないだろう。もし、その事で家に帰って厳しい折檻でもされたら別だろうが。
ACの場合、子ども時代は親の状態を常にうかがうことになる。親はある時は優しく、ある時は一転して鬼のようになる。その二面性に常に直面している。誰か補ってくれる人がいればいいのだが、このために人を信じにくくなってしまう。優しい親だけを見ていたい。きっと自分がいい子でいれば、優しい親でいてくれるのだ。自分が悪いと思いこむほうが、我が親が悪いと思うより子どもには救いなのだ。何と悲しい切実な気持ちだろう。虐待されながらも自分が悪いと思っている子どもは多い。
結局、子どもは人はその中に色んな面を含んでこそ人だという見方ができなくなっていく。そのため、大人になってから、苦しいことも出てくるだろう。恋人の一面だけを見て好きにもキライにもなったり、利用したり。
あるいは共依存者として、あんなに苦しめられた親のような依存症患者に引き寄せられるかもしれない。自分の認知上、合っているのだ。苦しいながらも。しかも、これが何故か磁石のように引き合ってしまいがちだったりする。
こういう一般例を言って「そう、私もACだし、共依存」と思っても意味はない。問題は、では、どうするか!だ。そもそも、それを変えることが新たな依存を生む可能性もある。だから、例えば、「断酒しなさい」「買い物依存なんてやめなさい」「あなたが飲ませないようにしなさい」「お財布をコントロールしなさい」だけで物事はすまないのだ。
こんな事を、ぼちぼちと自分の経験や周囲の事例を振り返って、心理学的に検証していってみたいと思う。
で、重たい話題になっている(しばらく続くのかな?)というところで、重たい内容の曲だけど、1人で辛いときに聴くと共感します。
「孤独のメッセージ」♪ポリス
孤独にさいなまれた男がボトルに入れて流したSOS
あきらめかけていた、ある朝、男は我が目を疑う
浜辺に打ち上げられた無数のボトル
寂しいのは自分だけじゃなかった。
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